昭和四十三年三月二日 夜の御理解
皆な、お願いはよくするけれども、それに対するお礼がなかなかできない。お礼が行き届かない。これでは、本当のことでないんだなと解らして頂いた、と言うて今日【 】の佐田さん、ね、のりこちゃんのお母さんが参って来てから「うちのおばあちゃんが、最近こういう様な事を解らせて頂いた。」というていわれ、お届けがあったんです。すぐ隣の池内さんか、というお家が…、ここに時々参ってこられますが、いつも学校に行く、ご主人はお店の方へ行かれる、奥さんが町に出られると必ず、そこのおばあちゃんが留守番とられますから、頼んでいかれる。「すみませんけれども。お家お願い致します。」というてから、声をかけて行かれる。それから、頼まれるから、おばあちゃんはいつも心かけとる。表を戸をたたいとる人があると、出ていってから「今、留守ですよ。いつ頃帰られますよ。」と言うて(笑)。電話が掛かってくると、また電話の応答も、おばあちゃんがやりなさる。
そしてその、夕方になると、その御主人もお母さんも帰ってきとる。声がして「あぁ、帰ってきなはったばいの。」とこう思う時にです、帰ってきたら、帰ってきたぐらいちょつと言ゃあよかとから、こちら、ちゃんと頼まれとるから、やっぱり心付けとる、ね。泥棒が入っちゃあならん。なんかまた、【 】ってやろう思うて、いつも心がけておるのに、帰ってきた時にゃあ「おばあちゃんただ今帰りました。」と一口いうてくれれば、私も心が休まるんだけれどもそれを言わっしゃらん。と、初めはそう思いよったけれども。「あぁほんに信心もこうだろうと思うた。」と言うてそのおばあちゃんが話された、と言うのです、ね。神様にお願いを、お願いすると神様は必ず、そういう様に守っておって、いわば働いておって下さる。願った事に対して、お取り次ぎを頂いて、お願いをするとその働きがある。
ですからやはり「留守をお願い致します。」というてお願いをしたら、「ただ今帰りました。」言わなければ、神様は、いつまでも(笑)。まあ神様のほうは、解っておられるにしても、それが人間の本当のお礼の道だ。本当の信心は願いが【 】お礼が大事という風に言うとられます。願いが三分にお礼が七分、と甘木の初代親先生もおっしゃとる、ね。お礼が行き届いとる時にゃあ、願うことは願わんでもおかげがうけられるぞはよ。
ですから、そこん所をよく解らして頂く、ね。「なるほど、そうだなあ。」、【 】のおばあちゃんじゃあないけれども、頼まれりゃあやっぱり、帰ってきなさる迄は心にかかっとる。もし留守中に、頼まれておって、頼まれがいのない様な事があっちゃあならん、と思うからやっぱり、まあ言うなら、他に用件があっても、その用件をせんでも、隣の事みてやっとんなさる様なもの。声がしょうるから、ああ帰ってきなさったなあ。帰ってきなさたら一言ね。お礼言うてもらう事はいらんばってん、「只今帰りました。」くらい言うてもよかりそうなもん。とこう思うた時に、それを神様と自分達に結びつけて考えた。こりゃあ、隣の池内さんじゃないな。こりゃあ、私達が、神様にお願いをして、お願いをなおざりにしとる様な事が沢山あろう。そこん所を行き届いて行く事が、生きとる信心であろう。お礼の信心は、こういう事であろう。というて、おばあさんが非常にもう「笑子さん、私、一つ本当の事が解った。」というて話されたというのが、その事であった。
私にさせて頂くならば「本当に佐田さん、そうですね。」というて【 】事ですけれども…。皆ながお願いをしたら、ね。「こうこうでした。」という事をまた神様に、お礼を申し上げなされば、行き届いた信心とはいえません。神様にお願いするだけの事が、神様のように思うておる人あります。そんな事じゃあない。神様に勿論、お願いも聞いてもらわねばならない。けれども、お願いさせて頂いたら、その報告ね、お礼、お礼が行き届いてできなければなりません。甘木の先生は、「そこんところを願いが、三分、お礼が七分、もうお礼さえ言うておきゃあ、願う事たあいらん。」と、言う様な言い方をされとる、ね。
どうぞ。